小学生時代は一人では何も出来なかった。
小心者で内気だった私は人の顔色を伺う癖があった。
父と母は晩婚見合い結婚で一人っ子だった私は親戚の従兄弟の中で一番年下で年もかなり離れてた。
小学高学年まで家庭内で我が儘が通ってた。
流行り物の玩具は駄々をこねれば母が買ってくれたし、お年玉はおじいちゃん、おばあちゃん、親戚から貰っていて多い時はお年玉総額が7万円くらい貰った。
私は周りの大人の目を気にしてて、とにかくおとなしくいい子にしてれば何もかもが自分の思うようになると思ってたし実際思いどうりになってたと思う。
そして、我慢を知らないで育った。
子供らしくない可愛げの無い子供だった。
小学校生活は周りの目を気にする(周りの目が気になる)ことで、授業中の発言を含め目立ったり、注目されたりすることが苦手だったから友達も少なく多人数で遊ぶのを避け、遊ぶ時は2人(私と幼なじみ)だけで遊んだ。
不登校になった事も多々あった。
朝7時45分からアニメ
魔法の天使クリーミーマミが放送されており、8時15分まで放送してた。
8時には家を出ないと学校に間に合わない。
でも魔法の天使クリーミーマミは見たい。
それで遅刻。
ちょっとした5分の遅刻でも教室のドアを開けた時のクラスメイトの集まる視線が嫌だったから少しでも家出るのが遅れたら「頭痛い」「気持ち悪い」「目が霞んでて字が読めない」…ありとあらゆる仮病を使った。
仮病が通らない時は、私が泣きながら柱にしがみつき、母が私の背負ったランドセルを力一杯引っ張り、私「行きたくない!」母「何で行きたくないの!?」問われてもイジメとか明確な理由なんてなかった。
「周りの目が気になるから」なんていう理由が通らないのはわかってたからひたすら「行きたくないものは行きたくないの!!」と泣き叫けんだ。
学校を休んだ。登校拒否。
私は嫌なことから逃げることを覚えた。
普通、遅刻して教室入るので嫌な思いをしたならば「これからは遅刻しないようにしなきゃ」と遅刻した自分が悪かったことを自覚して直していこうと思い経験し成長していくところを、私は遅刻したら学校を休めば嫌な思いしなくてすむと過ちを自覚せずに過ごしてしまった。
この頃から我が強くなり始めた。
嫌なことは絶対やらない。自分の都合のいいことは無茶言ってでも押し通した。
私は『努力する』ことを覚えなかった。
それでも六年生になった時、友達も少なく嫌なことから逃げて過ごしてきたから入学してから六年間、特別最悪な失敗もなかったけど良かった思い出もないことを虚しく感じ小学生時代に一つだけでも、いい思い出を作りたくて、最後の最後に自分で立候補して卒業式運営委員になった。
卒業式の飾り付け、卒業式の流れや歌う歌を決めたりした。
卒業式で歌ったのは槇原敬之の
どんなときもだった。
卒業式は充実して小学校を卒業出来た。
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