ある体育の時間、エアロビクスを踊っていた。
体育館のステージに3人の子が上げさせられてエアロビクスを踊っていた。
その時、体育を指導していたのはやよい寮の、えこひいきがある先生だった。
5~6曲踊っても1人の子をステージから下ろさない。
その子はさつき寮でむつみ寮だった私と仲がいいと言うわけでもなかった。
その子が「もぅ~嫌ぁ~っ!」と叫んだ時、私は「あのっ!私がステージに立ちますから!」と口に出てしまった。
えこひいきのある先生は矛先を私に変えた。
「私が決めたことに口出すんじゃない!!あんたは何様のつもりなんだ!」と怒鳴りつけられた。
「もう、嫌がってるじゃないですか…」と私が言うと、先生は体育座りをしていた私に「立ちなさい!」と言い、なんなんだ!とまくしあげ始めた。
「可哀想じゃないですか…」と言う私に、ステージで踊ってもステージに上がらなくても、エアロビクスを踊ることには変わりないと先生に言われて、それはそうだなと思った私は「でしゃばってすみませんでした」と謝ったが、先生の絶対に許さないという勢いは増す一方だった。
そして体育の時間、周りがエアロビクスの続きを踊る中、私1人だけ体育座りをさせられた。
最後まで許してもらえなかった。
私は今月はもう進級出来ないと開き直り、4人部屋の同室の女の子とペチャペチャ私語をするようになった。
本来ならホールにいる先生に「●●さんに珠算聞きます」とか許可を求めてから話さなければならないのに、たまたまその月同室だったおしゃべりな子がいたので私は無断でおしゃべりをした。
最初、トラブった時はちゃんと謝らなくちゃと思ったけど、寮が違う先生だったので謝る機会がなかった。
朝礼の時並んで歩いている時に、その先生の前を通ることがあったけど、列を乱して1人だけ立ち止まり謝ったとしても、今度は列を乱したことを怒られると思ったので出来なかった。
トラブって二週間が経った頃、及●先生に呼び出されて、トラブった先生と話しが出来たけど、その先生はたちが悪く謝っても一向に許してくれない。
「朝礼で前歩ってたんだから、謝る気があれば謝るでしょ!?」と言われた。
そんな事したら、もっと怒るくせにと思ったが、多分及●先生が頭下げて連れてきてくれたんだろうと思った私は許てくれるまでひたすら謝るしかなかった。
納得出来ない事で必死に謝っていたら、涙が出てきた。
泣きながら謝り続けた。
結局最後まで許してもらえなかったけど、形上許してくれた。
そして、毎月1日にある成績発表の時、私は見事にボツった。
ボツるような生活をしてたし、ボツるとわかっていたけれど、本当にボツったと言われた時は精神的ショックが大きかった。
そして、自分の考えや思いつきが少年院では通用しないことを思い知らされた。
与えられたら言われたとおりにするだけでいい。
先生が黒だと言えば、私には白に見えても黒だと答えればいいと思った。
私は少年院で二回泣いた。
一回目はえこひいきのある先生とトラブって許してもらえなかった時と、もう一回は中級に進級して、炊事に選ばれ初めて炊事場に入った時だった。
炊事は朝、昼、夕食作りをする係りで、成績が良く安定している子しか選ばれなかった。
炊事に選ばれる前の月、軽い気持ちで「炊事やってみたいなって思います」って及●先生に言ったことで炊事に選ばれた。
炊事場に入る前は、炊事に選ばれて少し浮かれてた私。
でも炊事場に入ってみると、予想以上にハードで、何より炊事のおばちゃんがキツイ人だった。
炊事当番は1日に2人で、炊事のおばちゃんと炊事当番の2人だけで全寮の食事を作らなければならなかった。
作るのはもちろん、食べ終えた食器洗いや後片付けをしなければならない。
私は右も左もわからない中作業に追われ、炊事のおばちゃんに「大のザル取って!」と言われて、周りを見渡すとザルが沢山あってどれが大のザルなのかわからず、一番大きそうなザルを渡した。
おばちゃん「それじゃない!ったくも~」と怒る。
初めて炊事場に入ったのに、ここが大のザルだよと教えてもくれない。
教えてくれないから出来ない。
で、炊事当番の初日、散々文句言われた午前中が終わり昼ご飯のため寮に帰った私は泣き崩れた。
当直の先生が「午後もあるから、泣きたい時は泣きなさい」と1人部屋で泣き崩れることを許してくれて、私は大泣きした。
わかってる物をやらないんじゃなくて、まだ教えてもらってもないから知らなくて出来ない事に怒られる。
わけがわからなかった。
午後、炊事をやりきることが出来ないと思った。
泣いてた私に、当直の先生は「炊事に選ばれるって凄いことなのよ!頑張って!」と言って、お昼休みが終わり午後は重たい気持ちで炊事場へ行くしかなかった。
先生から炊事のおばちゃんに私が泣いていると連絡がいったのだろう。
炊事のおばちゃんは午後は午前中よりキツイ言い方をしなくなった。
炊事当番の日が近づくと気分も落ちた。
そんな私を見てた及●先生は「自分からやってみたいっていったのは嘘だったの?」と面談で聞いてきた。
「本当に選ばれるとは思ってなかったんで…」と私が言うと「選ばれたってことは、ちゃんと出来ると思われなきゃ選ばれたりしないんだから。嫌なことを受け入れて前向きに頑張ることも、とても大事なのよ」と及●先生は言った。
私は最初、手芸科に入ったが及●先生に資格を取らないかと言われて小売り販売士3級を勉強することになった。
学科の時間は小売り販売士3級の勉強を全寮から選ばれた6人で授業を行った。
ワープロ検定や、介護福祉士を受けてた子もいたけど、原則2つの資格、勉強の掛け持ちは出来なかったので私は小売り販売士3級だけを取得した。
休み時間、娯楽時間を使って勉強をし、400満点中376点で資格を取るために試験に挑んだ6人中一番いい成績で合格した。
先生達も、まさか私が一番いい成績で合格するとは思っていなかったようで、担任だった及●先生は珍しく感情を表に出して喜んでくれた。
学科の時間、私は下級生の時から小売り販売士3級の勉強をしていたけど、資格をとれるような生活が出来てない子達は、園芸科、農芸科に配属されて、当時榛名女子学園は古い校舎から新しい校舎へ引っ越ししてる最中で、引っ越しの作業をさせられたり、土いじりをさせられたり、草むしり芝生の手入れなど真夏の暑い中やらされてたらしい。
炊事当番も最初は戸惑ったけど夏の終わり頃には、勝手もわかり作業が手早くなって炊事のおばちゃんとも仲良くなった。
小売り販売士3級の試験が終わった時、私も園芸科か農芸科で作業か、嫌だなぁって思っていたら寮から2人しか配属されない生活科に抜擢された。
生活科は新入生のために衣類や雑貨をサイズ別に用意したり、シーツ洗いなどをするところで、担当の先生も優しく私語や雑談が出来る科だった。
真夏日、皆が草むしりをさせられている時、私はクーラーのきいた校内で雑談しながら新入生の荷物の仕分けをしていたのだった。
盆踊り大会もあった。
浴衣が配られ、着付けを学んだ。
盆踊り大会当日はチケットが配られ、かき氷か綿飴が食べられた。
運動会もあった。
両親が招かれ一緒にお弁当を食べた。
私は運動会の日、炊事当番だったので全員参加の入場行進やエアロビクスを披露しただけで、両親とはお弁当を一緒に食べただけで、炊事に追われただけだった。
園長先生が変わった。
と、同時に私がトラブった先生が転勤になった。
園長先生が変わって、日曜日のおやつが豪勢になった。
カールや板チョコ、市販のお菓子が出るようになった。
カップヌードルが出たときには皆で大盛り上がりだった。
それと、仮退院まで一本しか与えられなかったコンディショナーが、シャンプー同様備え付けられて自由に使えるようになった。
両親の面会は月に一度と制限されていたけど、30分面会出来て私の両親は毎月面会に来てくれていた。
面会の時、ジュースが一本差し入れられた。
両親が面会にこなくて、ジュースが飲めない子だけ、3ヶ月に一回集められお菓子を食べれたらしい。
そして、進級とか漢字検定、珠算でスタンプを集めると、4個で一回外出が出来た。
外出と言ってもバスで榛名湖に行き、散策するだけで自由ではなかったけれど、外出の時だけ特別にお菓子が貰えた。
練馬鑑別所から榛名女子学園までの道のりで、スナック菓子を渡され「当分、食べられないからね」と言われた意味がようやく身にしみてわかった。
仮退院したら、コンビニ寄ってもらってどんなお菓子を買おうか、ピザが食べたい、カップラーメンも。。。そんなことを考えて、眠れない夜を過ごした。
私が四回目の外出の日、及●先生に呼び出され、上がり(仮退院に備えてきさらぎ寮に移ること)を告げられ、仮退院までの二週間、新入生のために雑巾を縫って過ごした。
1996年11月11日私は榛名女子学園を仮退院し、両親が車で迎えに来て約一年ぶりに娑婆に出てきたのだった。
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